近代アロマの創建者3人

アロマテラピーの父、パパ、マダム



化学者それとも調香師?

近代アロマテラピーの父と言われるフランス人ルネ・モーリス・ガットフォセについては「化学者」と紹介している本もあり、「調香師」と紹介されている場合もありで、どちらなのだろうと確かめたく思っていました。
化学者と言えば数式や分子量計算やモルといった学校で習った頭の痛くなる単語が連想されますし、調香師ときけばゲランやシャネルが連想されて感覚と芸術の世界ですからかなり印象が異なります。実際の専門調香師の仕事には両方が含まれているのかも知りませんが、サイエンスとアートを一人で兼ね備えるのはやはり才能のある人だけです。

アロマ関連ドイツ語サイトの「AiDA Institut」に近代アロマテラピーの建設者3人について簡略に述べた歴史編を見つけました。ルネ・モーリス・ガットフォセ、ジャン・ヴァルネ医師、マダム・モリーの3人の紹介です。
それによるとガットフォセは化学者兼調香師兼会社社長であり、多方面の才能に恵まれていた人間でした。新分野の開拓者に多才な人が多いのはよくあることです。多能な人としてはイタリアのダヴィンチやドイツのゲーテが有名ですが、ルネ・モーリス・ガットフォセも小型ながらこのタイプの人だったようです。

彼の生家ガットフォセ香料店は会社組織になりアメリカにも拠点を設けたようで、以下のホームページで英文の会社紹介が読めます。history欄に昔のリヨンにあった香料店の店舗正面写真がでています。
http://www.gattefosse.com/



アロマテラピーの父ルネ・モーリス・ガットフォセ (Rene-Maurice Gattefosse)

1881年フランスのリヨン市近郊に生まれたガットフォセは子供時代から香水に取り巻かれていました。父親ルイと兄のアベールが香料店を経営していたからです。一家の関心は香水を化学的に探求することでした。当時の香水はまだ植物精油とアルコールだけから成っていましたが、化学合成香料利用も模索されていました。ルネ・モーリスは想像力の豊かな青年であり発見に情熱を燃やしていました。しかし父親は息子に対し、その空想の翼を新しい香水の創造、クレアシオンに使うように説得したのです。一家はさまざまな香水処方を開発し、当時一般的だったように濃縮液を販売するだけではなく、その処方を『ガットフォセ家の香水処方書』として出版もしています。

化学合成香料の発展につれ、より洗練された様々な香の組合せが可能になってきましたが、これは合成品の方が天然香料よりも品質が安定しており、また溶解性に優れていたからです。

ガットフォセ香料店はフランスのドローム地方、ヴォークリューズ地方、低アルプス地方の貧乏なラヴェンダー栽培農家を支援していました。栽培と蒸留の合理化の結果同地方のラヴェンダー産品は次第に有名になりました。
この間ルネ・モーリスはフランスでのハッカ栽培を支援したり、サルビア精油をイタリアから輸入したり南国のエキゾチックな精油の研究をしたりしていました。
父親のルイが1910年に世を去り、二人の兄アベールとロベールが第一次世界大戦で戦死した結果、ルネ・モーリスが家業の香料店を継ぎました。
弟のジャンは後に植物学者、化学者になりますが、この弟と一緒にルネ・モーリスはモロッコに旅行し同地に北アフリカ有数の香料の蒸留産業を興したりしています。彼の関心は更に精油や薬草の医療面での可能性探求に移り、この面で彼は農民から多くを学びました。とりわけラヴェンダーオイルの多面的な応用可能性に関心を寄せました。

1910年の6月、この事故の結果彼がアロマテラピーの父になったあの有名な火傷事故が起こります。香料店の作業室で爆発があり彼は両手と頭皮に火傷をしました。とっさに彼はあの「香り高き万能薬」のことを思いだしました。そしてその効能を自分自身の身体を使って試すことができたのです。

第一次大戦期間中(1914-1918)既に精油は治療用に使われていました。ガットフォセは1918年に精油をもとにした消毒セッケンを製造しました。このセッケンで被服と包帯を洗っただけではなく、オードトワレ代用品としても使われました。

1923年ガットフォセは精油の医学的効能の研究を開始し、それから様々な出版物や精油をもとにした各種製品の製造が続きます。この活動は第二次世界大戦中も続けられました。とりわけベルガモット精油の特徴とその殺菌効果が中心課題になりました。この過程で医師や病院関係者と共同作業が続けられましたが、皮膚科知識の増大とともにガットフォセは化粧品業界にも関心を示し、1936には専門家の間で評価を受け数ヶ国語に翻訳された著書『容貌の美学と化粧品 la physiologie estethique et les produits de beaute』を刊行します。

彼の最後となった二つの著書『アロマテラピー』『殺菌精油 essentielle antiseptique』(1937) は後のアロマ関係者に大きな影響を与えました。この著書の中で最初にアロマテラピーの概念が樹立されたのです。 彼は本を書くのが好きだったようで、紀元前の古代史や哲学問題にも彼の筆は及びました。未来物語まで書いています。

1950年ルネ・モーリス・ガットフォセはカサブランカで死去します。弟のジャンと栽培計画作業中の死でした。ガットフォセ香料店は現在でもフランスのリヨン市に存在し、そこから香料学の世界へ今でもいろいろな情報を発信し続けています。


 パパ、ジャン・ヴァルネ (Jean Valnet)

1920年生まれの彼は偉大な植物療法専門家として知られています。産婆さんをしていた祖母の影響を受けたヴァルネ少年は、既に9歳にして医者になり植物で病気を治そうと決心していました。リヨン市で医学を修めた後、1945年には陸軍軍医になりました。1953年以降は精油の応用理論と処方の研究に取り組みながら、合わせて法医学、精神病理学、微生物学、衛生学、熱帯医学をも学んでいます。

1950〜1952年のインドシナ戦争期間中、外科軍医だった彼は砲爆撃による火傷負傷兵を精油を使って治療し、平均点以上の注目に値する治癒実績を上げました。こうした学術研究により1954年には勲章を授与されています。

1959年陸軍を除隊しパリに居を移した彼はさらに精油の科学的研究に従事し続けました。有名な著作『アロマテラピー:植物ホルモンとしての精油 Aromatherapie: les huiles essentielles hormones vegetales 』を刊行したのは1964年のことです。この本は医学的にアロマテラピーを扱った最初の本であり、フランスでは改定11版が現在でも発売されています。この本により本来の意味でのアロマテラピーが始まったわけであり、そのためヴァルネはアロマテラピーの創建者と見られています。

ジャン・ヴァルネは芳香療法植物療法研究協議会(association d'etudes et de recherches en aromatherapie et phytotherapie) の会長を勤めましたが、この会の目的は「アロマテラピー、植物療法、生物、自然、物理療法の方法及びそれと関わる主題について調査研究する」となっています。
ジャン・ヴァルネ自身は「アロマテラピーを実施するのは医師だけではない。充分な知識訓練を受けてさえいれば誰でも治療行為はできる」と考えていました。
1995年5月29日彼は世を去りました。


 マルグリート・モリー、或いはマダム・モリー (Marguerite Maury)

旧姓マルグリート・ケーニッヒ (Marguerit Koenig) として1895年にオーストリアに生まれた彼女は首都ヴィーンで成長します。女学校時代には音楽に夢中だった彼女ですが、実際に勉強を希望した学科は生化学と植物学でした。しかし勉学を断念した彼女は17歳で結婚し数年後には子供が産まれますが、2歳のときその子を脳膜炎で失ってしまいました。夫が第一次世界大戦で戦死、父親が自殺するにおよんで彼女は看護婦としての教育を受ける決心を固めました。アルザスの病院で外科助手として勤務中に1838年出版という古い本『芳香物質の大いなる可能性 les grandes possibilites par les matieres odoriferantes 』をプレゼンとされました。この本の著者シャヴァンヌは後年ガットフォセの先生になった人物でした。マルグリート・モリーのアロマテラピーへの情熱はこの読書が始まりでした。
1930年代の前半彼女はホメオパティー(類似症状療法)の医師ドクター・モリーと出会い、彼から音楽、芸術、文学、鍼灸療法、禅仏教と並んでこの療法への関心を受け継ぎます。二人は研究と著述に共同してあたるようになります。
1940年代には精油がどのようにして神経系統に働くのか、心理面での均衡回復にどう作用し、若返り効果を持つのかを証明する作業に彼女の関心の力点が移りました。ヨーロッパ各地でゼミナールを開催しパリや英国やスイスにアロマテラピー診療所を開設するに至りました。

1961年には彼女の主著『若さという資本 le capital jeunesse』が出版されます。この本の中で彼女は自分自身の精油を使っての医学・美容療法の体験を語り述べ、若返りの香油を正しく使用するためには精油について正しい知識を学ぶ必要がある点を強調しました。
ダニエル・リーマンと並んで彼女は精油の美容健康保持上の効果を世に広めた第一人者の女性です。映画女優、舞台女優と大勢が彼女の診療所を訪れ治療を受けました。
1965年9月25日働き好きで疲れを知らない女性マルグリート・モリーは脳溢血に倒れました。彼女のお墓はスイスにあります。